日本近現代史と戦争を研究する

歴史学の観点から日本近現代史と戦争について記します。

小林英夫『日本軍政下のアジア』―「大東亜共栄圏」と軍票― 第二章

第二章は、「南方軍政はどのようなものだったか」というタイトルですが、
ここでは、軍票に関する部分を中心にみていきましょう。


日本は、1941年11月1日、「南方外貨標示軍用手票取扱手続」を策定し、
軍票印刷の準備をすでにはじめてました。
そして開戦と同時に、現地通貨表示の軍票を持って侵攻し、
軍票を現地通貨と等価で流通させることを宣言し、軍票を流通させます。


軍政初期における
各占領地ごとの状況がまとめられています。


【マラヤ・スマトラ】
英領マラヤは海峡ドル、スマトラはギルダーということなる通貨を使用する地域を
ひとつの軍政管内としたため混乱が生じた。闇相場では、100海峡ドル=60ギルダー。
43年4月スマトラを分離。


【フィリピン】
外国通貨は禁止されたが、
当分の間、米ドルのみ2ペソ=1ドルの比率で流通することを認めた。42年2月6日、米ドル流通禁止。
以後、ペソ貨とペソ軍票のみ流通が許された。


【ビルマ】
占領当初、ルピー軍票が間に合わなかったため、海峡ドル軍票で代用した。
やがてルピー軍票が出回り、ドルとルピーの価値関係の安定を図る必要に迫られた。


【ジャワ】
ギルダー軍票を流通させた(のちにルピア標示に変更)。占領当初は相対的に安定していた。


【北ボルネオ】
海峡ドル軍票が流通。貨幣経済が発展しているのはかぎられた都市部だけであった。


【海軍占領地】
旧オランダ領ではギルダー軍票を流通させた。ニューブリテンとニューギニア地域では、
オーストラリア・ポンド軍票を流通させた。換算率は1ポンド=10円で、現地通貨と等価ではなかった。



122頁では、南方開発金庫の支金庫および出張所が一覧表にまとめられています。
1943年3月末現在で、支金庫11、出張所12が設置されています。


日本は占領地のインフレ対策として、配給の統制を強化していきます。
しかしいくら配給統制を強化しても絶対的なモノ不足を解消しません。
そこで、砂糖や茶などのプランテーションをつぶして、食料や衣料作物の増産に乗り出すことになります。