日本近現代史と戦争を研究する

歴史学の観点から日本近現代史と戦争について記します。

歴史的責任とポスト・コロニアル


酒井直樹「日本史と国民責任」酒井直樹編『ナショナル・ヒストリーを学び捨てる』東京大学出版会、2006

ナショナル・ヒストリーを学び捨てる (歴史の描き方)

ナショナル・ヒストリーを学び捨てる (歴史の描き方)


高橋哲哉氏が歴史的責任に関して、「応答可能性」について指摘したが、
酒井直樹氏は詳細に述べる。

人種差別や民族差別は、個人の心理の問題ではなく、制度的な客観的な事態
(178頁)

なぜなら、私とあなたとの関係には歴史があるからであり、現存する差別は歴史に根をもっているからだ。
(177頁)


「ポスト・コロニアル」という語についても、歴史的な「刻印」という観点からとらえる。

この用語での「ポスト」は「ポスト・ファクトゥム(post factum)」であって、それは「後の祭」という意味での、「取り替えしがつかない」あるいは回復不能な(irredeemable)事態における「ポスト」である。それゆえ、ポスト・コロニアルな視座から考えると、植民地主義者であるという性格は、日本人という同一性にとって、偶々偶然に付け加わった付帯的な事態ではなく、本質的な事態なのだ。植民地主義の歴史は日本人という同一性に「取り替えしがつかない」仕方で刻印されており、ひとが日本人であることのなかに植民地主義者であったことが本質的に含まれてしまっており、それは、日本人という同一性を構成する掛け替えのない歴史であり、この植民地主義の歴史の現存こそが、ポスト・コロニアルなのである。
(177-178頁)


しかし、

責任を問われることは、責任を問われる者が直ちに有罪であり謝罪すべき立場にあることを意味しない。
(178頁)


日本人であることだけによって責任を問われることに、耐えられない者や苛立ちを覚える者は、
歴史の否定に向かい、あまつさえ責任を問う者の攻撃へと向かうのであろう。
それは民族差別の継続に他ならない。


責任の呼びかけ(慰安婦問題)に対して、酒井氏は次のように応答すべきだという。

私は偶々日本に生を享け、日本国籍をもち、日本国家によって保護されてきた人間であるにもかかわらず、組織的犯罪としての従軍慰安婦制度に荷担した当時の日本人を支持することは決してないし、私は彼らを弾劾する。である以上、私は、嫌疑を受けた者として正当な権利を保障された上で彼らが裁判され処罰されるように努力し、彼らの犯罪を隠蔽する人間とは友好関係をもとうとは思わず、同じ民族、同じ国民だからといって、私が彼らと共犯関係をもたなければならない理由は全くない、と示すべきだろう。
(183頁)


つまり「日本人を割ること」(186頁)である。