日本近現代史と戦争を研究する

歴史学の観点から日本近現代史と戦争について記します。

今日の到達点とディベート授業


佐貫浩「教育における価値相対主義と『自由主義史観』」松島榮一・城丸章夫『「自由主義史観」の病理』大月書店、1997

「自由主義史観」の病理―続・近現代史の真実は何か

「自由主義史観」の病理―続・近現代史の真実は何か


自由主義史観的ディベートは、
学問的到達点をリセットすることと同義である。
TVでディベートすれば、すべて解決するというようなディベート万能論もよく見受けられるが、
同じリセット思想だと思う。

重要なことは、事実や歴史的な評価について、今日の達成を知らせるということをあいまいにする方法として、ディベートが利用されているということです。
(254頁)

もちろん、学界の通説となっているような学説であっても、新しい事実の発見などによって新たに批判され、別の学説が通説になるということは、多くみられることです。しかしそのことは、あらゆる学説はその意味で仮説にすぎず、何が正しいのかの判断は避けるべきであり、だから真理は確定することができず、子どもたちにこれが今日到達されている考え方であるとして教えることは何もないのだということになるのでしょうか。だから、命題を対立する対等な二つの論理の対決として扱うディベートこそ、歴史・社会的な命題を扱う授業に適しているのだということになるのでしょうか。もしそのような論理がまかり通るならば、およそ社会に関する事柄は、何が真実であり、どのような教訓や価値が生み出されてきたかを伝えることは不可能になってしまうでしょう。
しかし社会に関する科学が蓄積してきた学問的な成果は、それほどいい加減なものではありません。
(258頁)

真理を伝えるということは、その時点での人間の真理探求の最高の成果を、今日の到達点として伝えるということなのであり、それ以下でも、それ以上でもありえないのです。だからあえていえば、新しい真理や事実の発見によっていま伝えでいることが通説でなくなり、別の説が通説になることもあるということを子どもとの間で了解しあったうえで、子どもたちに今日の到達点を伝えることが必要なのです。補足すれば、通説にとどまらず、対立する有力説、新しい発見に依拠した科学的根拠のある仮説などを授業にとり入れるならば、歴史の授業は論争的でスリリングなものへと大転換するのではないでしょうか。そしてそのことは、通説を通説として教えるということといささかも矛盾するものではないのです。
(258-259頁)


通説をきちんとふまえた議論になっているかどうかは、大きな分岐点である。