歴史学と歴史教育は分けられるか
- 作者: 尾上進勇,村上雅盈
- 出版社/メーカー: 東京出版
- 発売日: 1997/05
- メディア: 単行本
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俗っぽい表現が気になるところが多い本だが、
的確な言明も多いと思う。
歴史学と歴史教育に関して、次のように述べている。
そもそも歴史教科書とは、子どもたちに「歴史学」を教えるための材料です。
この認識をもてるかどうかが、「教科書」を論ずる資格の有無を決定づけるのです。
藤岡氏らは、「歴史学」は「歴史教育」とは違うものだとの前提に立っておられるようです。
教科書執筆者の中にも、同じように「歴史学」と「歴史教育」を分ける必要性を認める方がいますが、それは危険な誤りと申さなければなりません。
(52頁)
「歴史学」と別のところに成り立つ「歴史教育」は、子どもたちの歴史認識をとめどもなく「曖昧な」ものに導き、一歩間違えば、「ある意思」にからめとられる危うさに陥ることにもなりかねないということを知っておかなければなりません。
(53頁)
情報洪水の中で生まれ育っているいまの子どもは、誰もが驚くほど「早熟」です。子どもたちはあり余る情報の中で、何が本物かがわからないのです。だから、そこで必要なのは、単なる「情報・知識」ではなく、「考え方」「認識の方法」の教育なのです。
その教育が、子どもたちをさまざまな刺激や「危うさ」から救うことになります。
その意味からも、「歴史学」と離れた「歴史教育」のアングルは不要なのです。子どもに与えるべきは、真正面からの「学問的な考え方」であって、子ども自身、そうあることを欲していると言うべきでしょう。
(56頁)
「実体歴史」は、レベルとカテゴリーの異なる無数の情報とデータの、しかもランダムな集合体であり、集積体です。人はその前に立って(または、その中にあって)どうやって「歴史の認識」をすればいいのでしょうか。
誤りのないその認識のためには、論理的な整合性をもった「分析の方法」がなければなりません。「歴史学」とは、その方法を見つけ出す学問なのです。
(61頁)
それは、
―どう認識したら、最も論理的な整合性があるか、すべてを説明できるか―。
といった、近代科学に共通する前提から出発した「認識の方法」です。
これは物理学であれ、数学であれ、歴史学であれ、少しも変わりありません。
(61-62頁)
歴史学の成果の否定は、「曖昧な」状況へと導く。
「曖昧」で「液状化していく社会」(16頁)への批判は、
この本の主要なモチーフである。