詭弁的相殺法と常識
- 作者: 野崎昭弘
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 1976/01
- メディア: 新書
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「……とも考えられる」とか「……かもしれない」という論法は、詭弁的相殺法になりやすいものである。ひとつやふたつ反駁されても、次から次へと新説を並べてウヤムヤにしてしまおうとする作戦なら、それはまぎれもない詭弁である。もちろん「……とも考えられる」という説が、学問的にも現実性のあるものであれば、それは貴重な反論として、真剣にとりあげられなければならない。しかし、ただ論理的・抽象的可能性として「ありうる」だけで、「多分そうだろう」という現実性・蓋然性を無視した説にこだわるのは、本人が主観的にどういうつもりで述べていようと、詭弁といわれても仕方がない。
(67-68頁)
ja2047さんのことを思い出す。
否定論に対して、ja2047さんが口をすっぱくして批判していたのも
「蓋然性を無視するな」ということであった。
詭弁術にはいろいろな型があるから、手法や心得を簡単に要約することはむずかしい。しかし基本的な対策としては、強弁術のときと同じように(あるいはそれ以上に)「健全な常識、健全な判断力を養う」ことが大切ではないかと思う。いかに力強い言葉で説得されようと、
「だから、官憲も婦女子も、無差別に殺せ」
というのが結論であれば、断然はねつけるだけの理性は残されなければならない。
「あなたの考え方には、ついていけません」
反論はこれで十分である。
(116頁)
論理におぼれないこと。
常識が大事。
ゆうさんの「南京事件 初歩の初歩」は、非常によくできている。
そのキーワードも「常識」にあると思う。