日本近現代史と戦争を研究する

歴史学の観点から日本近現代史と戦争について記します。

いまの学生・生徒と歴史教育


歴史教育と歴史研究をつなぐ (岩波ブックレット)

歴史教育と歴史研究をつなぐ (岩波ブックレット)


座談会の内容をまとめたものである。
山田朗氏が司会を務め、ほか六名が参加した。


山田氏は、いまの歴史教育の状況について次のように指摘する。

歴史教育には、歴史をもとにして生徒にいろいろなことを考えさせるという側面がありますが、一般的には、ある出来事に対してただ一つの答えを求めるものであるという理解があります。ですから、こういう問いに対してはこういう答えをするのがいいのではないかと、常に生徒、学生は考えてしまうわけです。
大学でアンケートをとっても、たとえば満州事変からはじめるアジア・太平洋戦争は日本の侵略戦争である、というような意識はかなり強く、結論的にそういうことを言う学生は、数の上では多いのです。けれども、侵略戦争の中身、実態がどういうものであったのかということが、必ずしもとらえられていない。結論を先行して述べることができても、その具体像は語れないということです。実はそこに、いまの歴史教育の、あるいは歴史研究の―と言っていいと思います。両者は連動していますから―問題点、克服すべき点があるのではないかと思うのです。
(20頁)

すなわち、結論だけの理解である。
要領のいい「優等生」的な生徒や学生は、ポイントだけを「軽やか」に抑える。
結論を一応は抑える一方で、反発を覚えたり、「優等性」的なあり方に屈折した感情を示すのだろう。


吉田裕氏は、次のように述べている。

周囲の大学の先生から話を聞いていても、たとえば「新しい歴史教科書をつくる会」や小林よしのり氏の本に共感する学生は、明らかにいわゆる優等生ではない。優等生、つまり競争社会や格差社会を軽やかに生きている人たちは、そもそもそのような議論もしないし、文字通り優等生的に「侵略戦争だと思います」「謝罪すべきだと思います」というような対応ができるわけです。しかし「つくる会」に共感する学生は、少し屈折した、どちらかといえば競争社会についていけないような学生のタイプが多い。
(46頁)


また齊藤一晴氏は、最近の生徒は自分自身で問いを立てることが
できないとして、次のように述べる。

いちばん困るのは、何も考えず最初に「アジアには悪いことをした。申し訳なかった」と謝る生徒が多いということです。しかしそれに続けて「ただ、彼らの教科書もひどいし、反日愛国教育をやっている。だから彼らに文句を言われる筋合いはない」となる。全く次元の異なる話が彼らの中では結び付いていて、そこでは問いを立てることなどできません。いまの若い世代は、そういう状況にあるのではないかと思います。
(19-20頁)

学生に関しては、大上段から結論を語ることへの反発があることと、
具体的な問題から問いかけることの有効性が多く指摘されている。


・山田氏の発言

歴史教育においては、そもそも具体的なイメージのない人に、たとえば戦争や、植民地体験を教えていこうとした時に、どうしても結論優先的になる、言葉を覚えること自体が目的となるような穴埋め式的なものに陥ってしまうことがあると思います。
(25頁)

歴史の授業を受ける中でいろいろなことを考えようとしている若い人はそれなりに多いわけです。しかし、そこで「答えはこれしかない」という形で結論を出してしまうと、その瞬間に非常に雰囲気が悪くなってしまう。
(32頁)

最近の生徒や学生は、具体的な問題から入らないとだめですよね。大学の教育も相当苦しい状態になっています。まず一年生には概論科目を受講させて、その学問の枠組みを教えようとしますが、この方式では予期した目標が達成できなくなってきている。たとえば歴史学であれば史学概論を教えるわけですが、そこから入ることによって拒絶感を覚え、歴史嫌いを大量につくってしまう。
(28頁)


・吉田裕氏の発言

今年後半期の大学の授業は「戦後政治史の中の靖国問題」をテーマにおこないます。前半期は東京裁判がテーマだったのですが、そのような具体的な問題から入って広げていくというアプローチのほうが、それなりに学生が入りやすく、受け止めやすいというのは感じます。
それに加えて、何か特定の価値観を植えつけられているというように感じた瞬間に学生はサーッとひいていくので、そこはかなり意識します。どういう見解の違いがあるのか、あるいは史学史的に視点や重点の移動がどういう形であったのか、歴史家自体が時代の子ですからその時に見えていたことの限界というようなことも含めて、ある種のバランスを意識的にとっています。一本調子で教えてしまうと、いまの学生は本当にひいてしまいますから。
(31頁)