日本近現代史と戦争を研究する

歴史学の観点から日本近現代史と戦争について記します。

「捕虜を殺す兵士・殺さない兵士」


■今野日出晴「捕虜を殺す兵士・殺さない兵士」『歴史地理教育』663、2003.12


兵士になることの意味をどう授業するのか。
当時の兵士の捕虜の認識、「刺突訓練」の状況を確認した後、
次のように進める。

例えば、君たちの指揮官が「捕虜の一人も斬れない」で立ち尽くしていたらどうだろうか、躊躇せずに見事に斬り捨てるものと比べて、どちらが頼もしいと思うだろうか、と挑発的な問いかけをしてみる。人を殺すことが残酷だという表層的な価値観だけではすまない問題があること、それを考えたいと思うのである。
次に、「なぜ、これまで虫を殺すのも嫌だと思っていた人までも、捕虜を殺すことができたのか、その理由を考えてみよう」と発問する。


理由として、生徒たちは、次のような意見をあげる。


1.所属集団のなかでの上昇意識
2.集団内部の心理的圧力
3.上官の命令
4.中国人蔑視
5.国際法の無理解


ここで、最も問い尋ねたかったのは、周りには上官が居並ぶなかで、自分が初年兵として、一列に並んでいて、自分の番が来たときに、それを拒否できるのかということであった。

当時の兵士が、何か特別に残酷な人々ではなく、自分と同じ「普通の人」であるということの発見でもあった。同時に、こうした過酷な場所に置かれた兵士の苦悩を理解していくように思う。

この授業で、捕虜を殺すか、殺さないかを基準にして倫理的な善悪を判断させたいわけではなかった。先に、捕虜を殺すにいたる、1〜5のさまざまな条件をあげた。その条件のうちの一つでもあれば、捕虜を殺すことができる人もいるだろうし、すべての条件が揃ったとしてもなお、捕虜を殺さない場所に踏みとどまることができる人もいる。それをわけるものは、果たして何なのか。そのことを見つめてほしいと考えたのである。さらにいえば、それらの条件のうちのいくつかは、現在でもなお克服されないままに残っているようにさえ思う。
(※機種依存文字は改めた)

歴史を学ぶことは、過去を断罪することではない。
自分と同じ「普通の人」の発見であり、
そのような他者の立場を想像すること。


「日本人がそんなことするはずがない」というのは、
以上のような視点を全く欠くものである。