日本近現代史と戦争を研究する

歴史学の観点から日本近現代史と戦争について記します。

神崎清「北支の密輸地帯を往く」昭11.9


【三】(『北海タイムス』昭11.9.9)

満洲建国後、勢ひに乗じて北支に進出した日本人の誤れる優越感情の自由なる表現は、同じく日章旗の下に保護された朝鮮人の好ましからぬ商業活動と相俟つて、一時は恐日時代を現出したが、今やその機運が深刻な抗日運動に転化しつつある事実は、何人と雖もこれを蔽ひかくすことができない。日支関係を危機に導く抗日運動は日本の大陸政策と在支一部邦人の行動に対して、支那の民衆が突きつけた勘定書だとさへいへないことはない。


【四】(『同』昭11.9.10)

国民政府は日本の人絹砂糖に対して二十割の高関税を課してゐるが、殷汝耕の冀東政府は、その四分の一の税金ですませてやるのだといふのだ。水の高きより低きに就くが如く、経済学の法則に従つて、日本の商品が冀東沿岸へ怒涛のやうに押し寄せて行つたのである。
天津・秦皇島・山海関にある支那側の税官吏が、監視船を飛ばしてこれを撃退しようとしたが、停戦地帯では一切の武力を行使しないといふ停戦協定に縛られて、思ふやうな取締ができない。

冀東政府の方では、この日本商品の洪水を一手に引受け、唐山に査験処総処を設け、灤州、留守営昌黎、南大寺、北載河、秦皇島の沿岸六ケ所に税関を置いて、三月上旬より六月下旬に至る三ケ月余の短期間に挙げた税収が、六百万円の巨額に達した。これを逆に国民政府の側からいへば、僅か三ケ月間に二千四百万円の莫大な収入を喪つたことになるのだから、悲鳴を挙げたのも無理はない。
しかも、これらの商品は一刻もぢつとしてゐないのだ。上海や漢口を通じて全国的に日本の安い砂糖と人絹が氾濫しはじめ、イタリーの人絹は勿論のこと、全支の貿易商や製造工業家が深刻な打撃を受けるやうになつた。そこで国民政府も堪りかねて、全国各地に■査処を設け、外国輸入品のうち、所定の税金を収めてゐないものを私貨と称して遠慮なく没収し、その取扱者を売国奴として銃殺の刑に処した。

寄稿された論説等には冷静な観方をしているものが多い。