日本近現代史と戦争を研究する

歴史学の観点から日本近現代史と戦争について記します。

真の決戦場は国民の胸底三寸にあり

■大本営陸軍報道部「粛として顧る」『週報』424・5合併号、昭19.12.8、10頁

嘗てラバウルの戦ひ酣なりしとき、一部の論者は「ラバウルこそ日米の決戦場」であるとなし、仮りにラバウルを失ふが如きことあらんか、忽ち日本は敗北に陥るかの如き極論をあげつらう者もないではなかつた。サイパンのときまた然り。
もとよりラバウル、サイパンの戦略的重要点たるは疑ひなきところであり、ラバウルの孤立化、サイパンの喪失は我にとつて大なる打撃たるは否定すべくもない。
しかしながらこれ等の現象は、痛手は痛手ながら、それは決して我が致命傷ではあり得なかつた。サイパンを喪つた今日、現に我が国は一層の憤激に燃えつゝ、勇気凛々として戦つてゐるではないか。

戦況いかに転変し、戦勢いかに移るとも、我れに神武必勝の確信と努力あれば、断じて征戦目的完遂の光栄ある日は疑ひもなく近づき来るのである。
即ち再言す。真の決戦場は経緯度を以て画さるべきでもなく、山河陸洋を以て限定せらるべきものではない。
強ひてこれを求むるとすれば、それはたゞ戦ふ国民の胸底三寸にありとでも断ずべきであらう。我が国は申すまでもなく神の国である。


■大本営陸軍報道部「戦線東西南北」『週報』427号、昭20.1.3、3頁

我が陸軍は精鋭なる海軍と、真に骨肉の情を以て、緊密なる連繋を保ちつつ、一見不利と観ぜらるゝ戦局裡、着々として、醜虜撃滅の神機捕捉に備へてゐるのであつて、戦線がいかに錯綜するとも、また戦闘がいかに難局に陥るとも「大御稜威の下、最後の勝利は断じて我に在り」との固き信念を有するものであることを、まづ年頭の辞となし…