日本近現代史と戦争を研究する

歴史学の観点から日本近現代史と戦争について記します。

特定通常兵器使用禁止制限条約の成立


以下は、櫻川明巧「特定通常兵器の法的規制」『立法と調査』109、1982.4による。
著者は、外務委員会調査室所属。


通常兵器のうち、「過度の傷害」を与え、
「無差別の効果」を有する兵器に対する関心は、1960年代末ごろから高まった。
特に、ベトナム戦争におけるナパーム弾の強力な殺傷力が人々の注目を集めた。


1968年4月、テヘランで開催された人権国際会議は、
ナパームによる惨害がとりあげ、
国連事務総長に対して、ある種の戦争方法の禁止について研究するよう要請した。


国連事務総長は、「武力紛争における人権の尊重」と題する報告書を作成し、
1970年、国連総会において報告書が審議に付された。


1971年の国連総会では、事務総長に専門家の援助を得て、
ナパームその他の焼夷兵器に関する報告書を作成するよう要請する決議案が採択された。
この決議に基づき、翌年、前エントリでとりあげた事務総長の報告書が作成された。


一方、国連とは別に、赤十字国際委員会も特定兵器の使用禁止に対する関心を高めていた。1973年、同委員会は2回にわたり、ジュネーブにおいて、「不必要な危害を生ぜしめ又は無差別の効果を有する兵器」についての専門家会議を開催した。さらに74年にはルツェルンで第一回特定兵器専門家会議、76年にはルガノで第二回特定兵器専門家会議が開催されていく。これらの会議によって、政府間の公式討議を行う素地が作られた。


これを受けて、翌74年より77年まで計4回、「武力紛争において適用される国際人道法の再確認と発展に関する外交会議」がジュネーブで開催された。
結論を得るにまでは至らなかったが、79年までに特定通常兵器に関する政府間会議の開催を勧告する決議を採択した。


この決議を受けて、77年の国連総会は、79年に特定通常兵器の使用禁止に関する国連会議を招集すること、またその準備会議を78年に開催する決議を採択した。


ジュネーブにおいて、78年8月、79年3月の準備会議を経て、同年9月、国連会議が開催された。
ただ焼夷兵器について各国の基本的対立が解消されず、80年9月に再度国連会議が開かれることとなった。
いくつかの問題を残しながら合意が成立し、10月10日、3つの議定書とそれらを包括する基本条約(特定通常兵器使用禁止制限条約)が作成された。


焼夷兵器の使用の禁止又は制限に関する議定書(議定書III)について、櫻川氏は次のように述べている。

焼夷兵器は、たとえば火炎放射器、火焔瓶、砲弾、ロケット弾などの形態をとることができるが、他方、照明弾、曳光弾、発煙弾、信号弾など焼夷効果が付随的である弾薬類、あるいは装甲車、航空機など対物破壊を目的とし、貫通、爆風、破片による効果と付加的な焼夷効果とが複合するように設計された弾薬類は、いずれも焼夷効果を第一義的目的にしていないとの理由から除外されている。実はこの点は、国連会議で最後まで審議が難航した点であった。当初、米ソ両国は、焼夷兵器の範囲をナパーム弾に限定しようとしたが、その他の多くの国はすべての焼夷兵器の使用を禁止するよう主張したのである。結局、米ソが譲歩する形で、火炎による殺傷を第一義的目的としない照明弾など、あるいは主な目的は爆発であってその際に火炎を伴うもの、たとえば空対地ミサイルを軍事目標に限って使用すること、を除くすべての焼夷兵器の使用を制限することで妥協が図られた。もっとも、かかる除外規定が恣意的に運用されるのを防ぐため国連会議では、同規定は誠実に解釈されるべきであって、議定書の意図を変更し、歪めて適用してはならない旨の共通理解を成立させている。
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