日本近現代史と戦争を研究する

歴史学の観点から日本近現代史と戦争について記します。

「日中戦争」という呼称

多くの研究者は、当時呼ばれていた「支那事変」ではなく、「日中戦争」と呼称する*1。「支那」に替わり「中国」という呼び名が一般的になったことが一つの原因であるが、では「事変」ではなく「戦争」と呼ぶのはなぜだろうか。


1960年代の代表的な研究である、日本国際政治学会・太平洋戦争原因研究部編『太平洋戦争への道』(朝日新聞社、1962-63、全8巻)は、第3・4巻を「日中戦争」上・下としているが、第4巻、23頁に次のようにある*2

「事変」という名の全面戦争 戦争が華北から上海へ波及するにおよんでは、もはや「事変」を短期の局地紛争として収拾する可能性は失われていた。それにもかかわらず、満州事変以来なしくずし的な武力行動の積重ねの間に鈍磨した感覚は、伝統的な中国への軽侮感情とも結びついて、政府・軍部が事態の本質をみぬいたうえで、適切な政策指導を打ちだすのを妨げたのであった。
 数十万の大軍を送った大戦争を、アメリカの中立法発動にからむ利害があったとはいえ、最後まで、「支那事変」(九月二日、北支事変をこのように呼び変えた)の名で押しとおした例に反映しているように、政府・軍部は、この「事変」が実はまぎれもない全面戦争であるという認識を忘れがちであった。

(※太字ママ)


実は第3巻付録において、「日中戦争」(また「太平洋戦争」)という呼称を用いる理由は、「日本側からの一方的呼称よりは、国家と国家との関係から把握する国際政治的呼称による」とされているのだが、私は上述の引用箇所の方がよく説明していると思う。すなわち、「日中戦争」という呼称は、「まぎれもない全面戦争である」という「事態の本質」を鑑みた評価であり、また政府・軍が有していた、容易に屈服が可能であるという、「中国への軽侮感情」と結びついた満州事変以来の「鈍磨した感覚」をそのままなぞることを嫌うためである。


研究者は、当時用いられなかった語彙をも用い、当時の人が聞いたことない語彙でも呼称するのである。フランスの歴史家、マルク・ブロックは、次のように述べている(マルク・ブロック著、松村剛訳『新版 歴史のための弁明』岩波書店、2004)。


すべてを一言で言うなら、史料の語彙はそれもまたひとつの証拠以外のものではない。おそらく何よりも貴重ではあろうが、あらゆる証拠と同じく不完全であり、したがって批判の対象になる。重要な単語、特徴的な文体の癖のそれぞれが本当に認識の道具になるのは、その周辺と比較し、その時代、環境ないし作者の用法の中に置き直し、とりわけ、それが長く存続した場合には常に存在する時代錯誤による誤解の危険から守って初めてである。
(146頁)

史料の用語がわれわれの用語を確定するのにまったく十分でありうると見なすことは、要するに、史料がすっかりできあがった分析をもたらすと認めることになるだろう。その場合、歴史学にはなすべきことがもう大してなくなるであろう。幸運にも、われわれにとって嬉しいことに、事態はまったくそうではない。だからこそ、われわれの分類の大きな枠組みをほかの場所に探さざるをえないのである。
(147頁)

*1:1950年代には、「日支事変」、「日華事変」、「中日戦争」の呼称も見られたが、60年代には「日中戦争」が定着した。1967年には新書で、臼井勝美『日中戦争』(中公新書133)が刊行されており、一般的にも「日中戦争」が普及したのではないだろうか。

*2:秦郁彦の執筆による。