日本近現代史と戦争を研究する

歴史学の観点から日本近現代史と戦争について記します。

戦争の定義

国際政治学者の奥村房夫*1は、代表的な戦史家の戦争の定義に関して、以下のものを挙げている。
(奥村房夫『「戦争」の論理』学陽書房、1986、16-17頁)

(1) クラウゼヴィッツ(『戦争について』)
「戦争とは一種の強力行為であり、その旨とするところは相手にわが方の意志を強要するにある。」
「戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続にほかならない。」


(2) Q・ライト(『国際関係における安定と前進』)
「法的意味においては、戦争とは、二つあるいはそれ以上の政治集団が軍事力により対立を解決するようにひとしく権利を与えられた状況、と考えられる。」
「社会学的な意味においては、戦争とは、かなりの規模の軍事力によって行われる政治集団間の対立、をいう。」


(3) G・J・シャミス(『国際関係における戦争とテロリズム』)
「戦争とは、二つあるいはそれ以上の政治体間の軍事力による継続する対立によって特徴づけられた、闘争の一時的状態である。」


(4) J・リーヴァイ(『現代大国システムにおける戦争』)
「戦争とは、独立した政治体の組織された軍事力間の実質的な武装対立である。」

(※丸数字は改め、また適宜改行した。)


これらを受けて、奥村は戦争の定義をしているが、
(1)主権国家
(2)軍事力
(3)規模

の3点がポイントとなるという。


(1)に関しては、「戦争は主として、主権国家の行為である」としている。
しかし、

主権国家に対するその内部の反抗集団の軍事力による抗争、すなわち内戦でも、その規模の大きいものは戦争の範疇に入れる。
(18頁)

と述べている。
上述の各定義でも「政治集団」、「政治体」とあるように必ずしも主権国家の行為に限定されていない。


(2)に関しては、

軍事的対立といっても、それは、攻撃・防御・砲撃・爆撃というような、流血を伴う軍事力による直接的戦闘行為だけにはかぎらない。軍事力による封鎖、示威、脅威、護衛などという間接的な軍事行動も含まれる。
(同頁)

としている。


(3)に関しては、
a.参加兵力、b.継続期間、c.戦闘行為による損害
からなる諸要素の規模であるとしている。


奥村の定義は、次のようになる。

軍事力による軍事行為を伴う、主として主権国家間の相互作用であって、ある程度の規模を有するもの。
(19頁)

日中戦争の呼称の問題でもよく言われる宣戦を戦争の定義の要素とする見解に関して、奥村は、政府が宣戦せず、事変と称したとしても、国際政治学的には、明らかに戦争である。「日華事変は明らかに日中戦争である」(20頁)。また、宣戦という形がとられていない、朝鮮戦争ヴェトナム戦争、アラブ・イスラエル戦争、ファークランド戦争、イラン・イラク戦争も「戦争」の範疇に入る、として次のように述べている。

要するに、国際法学者がどのように論じようとも、「宣戦」という手続きは、現実的戦争論の定義には必ずしも必要ではない。
(20頁)


歴史学の立場においても、戦争の呼称に際して、
宣戦のみに拘泥する必要はないと私は思う。



奥村が挙げるP・ヴィゴル『戦争と平和と中立についてのソ連の見解』によれば、
ソ連は以下のように、戦争の種類を詳細に分類している(23頁)。

a.領土拡張の戦争
b.独立の主権国家間の戦争
c.帝国主義戦争
d.世界戦争
e.植民地戦争
f.民族解放戦争
g.民族戦争
h.局地戦争
i.制限戦争
j.連合戦争
k.内戦
l.革命戦争
m.援助戦争

*1:陸軍士官学校、陸軍大学校の経歴を有する。