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日本近現代史と戦争を研究する

歴史学の観点から日本近現代史と戦争について記します。

ノモンハン事件責任者の処分

日中戦争期

ノモンハン事件責任者(軍上層部)の処分に関して、
陸相・畑俊六は、日記に次のように記している(続・現代史資料4『畑俊六日誌』みすず書房、1983)。


昭14.9.8

ノモンハンに於ける第六軍の戦績は頗不良にして、23Dは支離滅裂となり軍旗二旒を焼却し、死傷一万を越え、未だ曾てあらざることゝなれり。畢竟関東軍が敵の攻勢意図を承知しながら之が対策を放置し、此の如き結果となりたるものにして、殊に多数の死傷者を敵線内に委棄したるは大失態と云はざるを得ず。依て植田大将には甚気の毒ながら責任を執て貰ふことゝし参謀本部附に、参謀長磯谷中将、副長矢野少将も各々参謀本部附となし、作戦主任課長も亦交迭せしめたり。甚以て心苦しき次第なるが致方なし。
(231-232頁)


同11.14

ノモンハン事件責任者の処分は事頗重大にして色々の議論あり。植田大将の如きも自分独りの処分にて他に累を及ぼさゞることを極力主張しあるも、慎重に研究考慮の上人事局長をも現地に派遣し慎重に慎重を加へたるが、幕僚は無責任なりといふ法理的の説明もつくも、兎角幕僚が無責任にして独善的の傾向少なからず、道義的に見て責任を取らしむることが時弊を匡救する途なり。又参本第一部長は条例上参謀総長に直隷し事実上の責任者なれば、此人少の時代に幾多有為の人を失ふは情に於て頗忍びざる処なるも、ノモンハン事件に原因する陰鬱な空気を一掃し更正する為、植田大将の外中島元次長、橋本元第一部長、磯谷元参謀長を待命追て予備とすることに決心し、本日内奏したる処、ノモンハン事件の人事は止むを得ざるもそれで結構だとの仰せありたり(この人事の為本日午前九時半より総長殿下邸にて三長官会議を開催せり)。
(236-237頁)


秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』(東京大学出版会、1991)で人事を確認してみよう。

【関東軍】
植田謙吉(10)*1
昭11.3より関東軍司令官兼駐満大使。同14.9参謀本部附(64歳)、14.11待命、14.12予備役となっている。

磯谷廉介(16)
昭13.6より関東軍参謀長。同14.9参謀本部附(53歳)、14.11待命、14.12予備役と植田と同様であるが、その後、17.1召集され、19.12まで香港占領地総督となった。

矢野音三郎(22)
昭13.12関東軍参謀副長、14.9参謀本部附(51歳)、14.12鎮海湾要塞司令官、15.7北支那派遣憲兵隊司令官、15.8中将、16.6第26師団長、17.4公主嶺校長、17.7教育総監附、18.8予備役

寺田雅雄(29)
昭14.3関東軍第1課長(作戦課長)、14.9参謀本部附(43歳)、14.10千葉戦車学校附、15.8戦車第1連隊長、16.8陸大教官、16.10少将、17.6機甲軍参謀長、18.10第2方面軍参謀副長、19.4機甲本部附、20.3中将、20.5機甲本部長、20.12予備役

服部卓四郎(34)
昭14.3関東軍作戦主任参謀、14.9歩兵学校研究部員兼教官(38歳)、15.6教育総監部課員兼陸大教官、15.10参謀本部員(作戦班長)、16.7参謀本部作戦課長、16.8大佐、17.12陸相秘書官、18.10参謀本部作戦課長、20.2歩兵第65連隊長

辻政信(36)
昭12.11関東軍参謀、13.3少佐、14.9第11軍司令部附(36歳)、15.2支那派遣軍総司令部附、15.8中佐、15.11台湾軍研究部員、16.7参謀本部作戦課兵站班長、16.9第25軍参謀、17.3参謀本部作戦課作戦班長、18.2陸大教官、18.8大佐、支那派遣軍参謀(第3課長)、19.7第33軍参謀、20.5第39軍参謀、20.7第18方面軍参謀


以上のように司令官、参謀長は予備役編入となったものの、
それより下の者は、その後も要職に就いた。
皆、軍学校の教育職に就いていることも注目される。


参謀本部
橋本群(20)
昭13.1参謀本部第1部長、14.3中将、14.9参謀本部附(52歳)、14.11待命、14.12予備役

稲田正純(29)
昭13.3参謀本部作戦課長、13.7砲兵大佐、14.10参謀本部附(43歳)、14.11習志野学校附、15.8阿城重砲連隊長、16.7第5軍参謀副長、16.10少将、17.7第5軍参謀長、18.2南方軍総参謀副長、18.10南方軍総司令部附、第19軍司令部附、第2野戦根拠地隊司令官、19.4第6飛行師団長心得、19.8停職、19.10第3船舶輸送司令官、20.4兵器本部附、中将、20.5第16方面軍参謀長

堀場一雄(34)
昭12.3参謀本部作戦課戦争指導班長、12.8航空兵少佐、14.3航空兵中佐、14.12支那派遣軍参謀(39歳)*2、16.6軍務局御用掛(総力戦研究所員)、16.8大佐、17.8浜松飛行学校教官、17.11飛行第62戦隊長、18.10第2方面軍参謀、19.3南方軍参謀、19.6第5航空軍参謀副長、20.8軍務局附、20.11待命、20.12予備役


予備役に編入されたのは、第1部長のみであった。
稲田、堀場はその後も要職に就いた。


また参謀総長・閑院宮の責任も問題となっていたことがわかる。畑は次のように記す。

昭15.3.17

ノモンハン事件に伴ひ責任者それ\゙/責任を執りたる際、参謀総長殿下も御退職の意志を表示せられたるが、皇族が参謀総長となりあらるゝことが便宜のこともあり、又后任難もあるため、当時次長中島中将より新中央政権樹立の如き一段落まで御留任ありて然るべしとの意見を具申し、余よりも同様のことを申上げたるが、当時殿下には大臣もそういふなれば快く留任すべしとの御言葉あり、爾来そのまゝとなりありたるが、一部には皇族と雖責任をとらるゝが可なりとの意見もあり其時期を考慮しありたるが、蓮沼武官長の言に依れば、其当時陛下には総長も責任をとるがよしといふ御言葉ありたる由なり。
(249頁)


皇族といえども責任をとるべきだという意見があったことや
天皇が閑院宮の責任に言及していたことは興味深い。
「新中央政権樹立」とあるは汪兆銘政権のことであり、昭15.3.30に新政府の成立式が挙行されている。汪政権樹立をみても閑院宮はそのまま職に止まり、日本軍の北部仏印進駐、三国同盟締結の後、昭15.10.3、杉山元と交代した。

*1:カッコ内の数字は、陸軍士官学校卒業期を示す。

*2:14.9に戦争指導班長を更迭されている。