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日本近現代史と戦争を研究する

歴史学の観点から日本近現代史と戦争について記します。

抜刀隊と史料

「百人斬り」との関連で西南戦争時の抜刀隊をとりあげるという
Apemanさんの着想が興味深い*1


『郵便報知新聞』1877年3月12日付社説「賊之兵略常在接戦」には、次のようにある。

腰間三尺ノ秋水ヲ提テ狂呼スル于今幾年ゾ其凝塊セル精神ハ初メテ今日ニ表発シタリ本是レ廃刀ヲ傷ムノ精神素是レ日本刀ヲ護スルノ精神ヲ以テ其敵ニ向フ安ンゾ日本刀ニ頼リテ奮戦セサルヲ得ンヤ且其戦フヤ弾薬ノ予備ナキニ非ルモ事久シキニ亘レハ貯備モ亦竭尽セサルヲ得ス且刀ヲ揮フテ奮闘スルハ彼ノ長所ナラハ一ハ以テ弾薬ヲ省助シ一ハ以テ其長所ニ拠ランカ為メニ接戦ニ出ルナキニ非ス近時田原吉次ノ戦闘ハ唯接戦ノミニ在ルカ如シ顧フニ官軍ハ殊ニ欧州ノ戦規ニノミ因依セスシテ殊更ラニ一種ノ制規ニ出テ日本人ト戦フニハ別ニ一派ノ戦規ヲ以テセサル可ラサルヲ了知シ自ラ其方法ヲ設置シタル可シ


ここでは、薩摩軍が廃刀に対抗し、日本刀を守るという精神により日本刀をもって奮闘していること、そのような相手との戦闘は接近戦になり、そのため官軍には「欧州ノ戦規」とは別の方法が必要であることを主張している。


そして官軍において薩摩兵の抜刀攻撃に対抗するため採られたのが、警視隊巡査から選抜した抜刀隊の編成であった。


抜刀隊の最初の戦闘に関しては、参謀本部『征西戦記稿』(1887)に次のような記述がある。
1877年3月14日、田原坂の記録である。

我カ抜刀隊ハ川畑上田園田三警部各々自ラ刀ヲ揮ヒ其衆ヲ分率シ(※割注*2)賊ノ中央ノ塁ニ逼リ三面一斉ニ衝突シ縦横乱撃立トコロニ数十賊ヲ斬ル余賊塁ヲ棄テ走ル乃チ奪フテ之ニ拠ル此塁ヤ台兵十数日ノ攻撃ヲ費ス所是日一撃之ヲ陥ル抜刀隊ノ功多キニ居ル世ニ所謂抜刀隊ノ斫込実ニ本日ヲ以テ始ト為ス
(14-15頁)


抜刀隊百名で堡塁に攻め込み、数十の薩摩兵を斬って、なかなか落とせなかった塁を占領している。ここでは白兵戦における日本刀の有効性が示されている。


次の史料はよく知られたものだが、同じ戦闘を、犬養毅は郵便報知新聞の記者として戦地から報じた。
(「戦地直報」第二回『郵便報知新聞』1877.3.28)

十四日田原坂の役我軍進て賊の堡に迫り殆ど之を抜かんとするに当り残兵十三固守退かす其の時故会津藩某(※割注*3)身を挺て奮闘し直に賊十三人を斬る其闘ふとき大声呼て曰く戊辰の復讎戊辰の復讐と
是ハ少々小説家言の様なれとも決して虚説に非す此会人ハ少々手負しと云


ここでは、薩摩兵十三人を斬ったという隊員が出てくる。薩摩に対する会津の復讐を叫んでの奮闘が、まるで小説のようであるが、作り話ではないと犬養本人も述べているところだが、新聞記事という性格上、史料の信憑性としては一段下がるであろう。


先の参謀本部の記録などは、部隊単位での記述なので、何人斬ったとか、戦闘の細かい局面を観る場合、戦闘参加者個人の日記があれば*4、可能性があると考えられる。

*1:兵器に関する物理的距離と心理的抵抗の問題も興味深いが、それはまた改めて。

*2:百人ヲ四分シ上田園田ハ二警部(緒方惟典同惟一)四十巡査ヲ率テ塁ノ正面ニ向ヒ川畑ハ二警部(永谷常修内村良蔵)三十巡査ヲ以テ其背面ニ逼リ隈元警部補ハ巡査十名ヲ以テ側面ヨリシ田村警部以下廿三名ハ遊軍タリ

*3:巡査隊の中

*4:実際にいくつかの日記が刊行されている。