日本近現代史と戦争を研究する

歴史学の観点から日本近現代史と戦争について記します。

「軍票インフレ」について

インフレに関して、軍票と物資は、言わばコインの表と裏の関係であって、
ふつう、軍票をコインの表とみるから、
軍票インフレ」という表現になるのではないでしょうか。


今村忠男『軍票論』(1941年)は、次のように述べています。

軍票は一旦戦禍に見舞れた地域に流通するものであり、従つてその地方には裏付となるべき物資は少ない。しかるに放出を自制せず、無制限に放出し、それに対して回収策がとられなければ直ちにインフレを起し、価値は下落して反古化する。
(153頁)

(引用者注―軍票の)対内価値を維持する為には、一は、軍票及その裏付となるべき物資の数量を調節する事である。軍票インフレが起らないやうに、又裏付となるべき物資に欠乏を来さないやうに努めることである。
(279頁)


南方の占領にあたって、当局においても、
軍票インフレ」を防ぐため、軍票の「縮減」、現地通貨への移行を
計画します。


■「金融及通貨ニ関スル処理要綱」(岸幸一コレクション D2-810)

占領地ニ於ケル金融及通貨ニ関シテハ南方経済対策要綱ニ依ルノ外左ニ依リ之ヲ処理スルモノトス

一、要旨

大東亜共栄圏ニ於ケル我方ノ金融制覇ヲ期スル配意ノ下ニ我カ金融機算ノ現地発展ヲ助長シ漸次在来金融機算ノ地位ニ代ハラシムルモ差当ハ占領地信用ノ崩壊ヲ避クル為ノ在来金融機関ヲ把握利用スルモノトシ通貨ニ関シテハ軍票ノ使用ハ可成縮減シ速ニ其ノ使用ヲ停止シテ現地通貨ノ全面的使用ニ移行シ因ツテ軍票インフレニ伴フ不利益ヲ廻□(避)シ占領地経済力ノ把握善用ニ依リ占領地ノ負担ニ於テ駐軍竝ニ資源開発取得ノ資金ヲモ支弁シ兼テ占領地通貨価値ノ維持ヲ計ルモノトス


しかし、実際においては、
軍票の「縮減」は進みません。
物資の裏付が乏しいなかで、軍票が増発されていきました。


■除野信道「南方開発金庫券の発行と責任」『上智経済論集』17-1・2、1970.12、14頁
第4章「軍票インフレイション」

国民経済的発達が未熟なこの地域(引用者注―東南アジア)においては先進国に比べて、商品ストックは元々少なかった。しかもそのストックの幾部分かは戦火によって破壊された。ここに大兵力が駐屯し、資源開発が大規模に急速に着手されるとなると、通貨対物財の不均衡は拡大する。そのうえに支払手段として放出された軍票あるいは南方開発金庫券の購買力の保証となるべき日本からの物資裏付は乏しかった。戦前の通貨流通量と終戦時の通貨流通量(在来通貨と南発券の合計)とを比べてみると、かような情況の下で、ジャワにおいては略々13倍、そしてそれ以外の地域では30倍前後の著増を示していた。
(中略)南発券によって物資は市場から引上げられ、その南発券は市場に滞留するからインフレイションは必至であった。

(著者は、1940〜42年、中国および東南アジアに派遣され、軍票業務に携わっている)


■南方軍政総監部「最近ニ於ケル南方地域通貨金融概況」昭19.1(『日本金融史資料 昭和編』第31巻、1971年、779-780頁)

最近ニ於ケル南方地域通貨流通高ハ昭和十八年十一月末現在ニ於テ全域ヲ通シ約二三億弗(盾、留比以下同シ)ニ達シ占領後約十四億弗ヲ増加(占領直前ヲ一〇〇トシ二五〇)セルモノト推定セラレ特ニ最近ハ「ビルマ」ニ於ケル軍資金撒布ノ増大ヲ主因トシ月膨張額ハ十一月ノ如キ全域ヲ通シ一億四千万弗ニ達シ増勢相当顕著ナルモノアリ
昭和十八年四月以降九月末ニ至ル最近半ケ年間ニ於ケル資金撒布竝吸収ノ概況ヲ推算スルニ左ノ如ク全域ヲ通シ資金撒布額約九億二千万弗ニシテ之ニ対シ資金吸収額ハ約三億一千万弗ニ過キス結局差引約六億弗ノ撒布超過トナレリ(詳細別表第一表)

 ○軍関係資金撒布額    五八三百万弗
 ○金融機関融資増加額   三〇五
 ○其ノ他撒布額        三四
 合計資金撒布総額     九二二
   資金吸収額        三一三(内預金増加ニ依ル額二五三)
 差引資金撒布超過額    六〇九百万弗


日本銀行「南方ニ於ケルインフレーシヨンノ問題」昭18.12.9(『日本金融史資料 昭和編』第30巻、1971年)

最近半ケ年間ニ於ケル南発券発行高ノ増勢ハ特ニ顕著ナルモノアリ。更ニ今後ビルマ作戦ノ進展ニ伴ヒ泰・ビルマヲ首メ南方一般ニ軍費調達ヲ原因トスル通貨膨張ノ傾向ハ一層拍車ヲ加ヘルモノト思考セラル
(354頁)


南方各地域ノインフレ原因トシテハ種々挙ケ得ヘキモ其ノ主要ナルモノトシテハ本邦ヘノ輸出超過・駐屯軍ノ軍費調達・現地生産ノ不振等何レモ今次戦争ニ直接関係ヲ有スルモノナルカ、右ノ外現地住民カ一般ニ智識ノ程度低ク経済統制困難ナル上ニ貯蓄心稀薄ニシテ撒布資金ノ吸収見ルヘキモノナキコト等モ現地インフレ惹起ノ重要ナル理由トナリ居レリ
(355頁)


作戦行動ノ活潑ナル地域カインフレノ程度モ自ラ大ナルコトヨリ観テ之ヲ包含セル軍ノ撒布資金カ現地インフレノ主要原因タルコトハ明カナリ
(356頁)


南方地域ニ於ケル通貨ノ増発ハ今後作戦ノ進行、産業開発ノ進展ニ伴ヒ一段ト激化スヘキコトカ予見セラルルカ、此ノ場合過度ノインフレハ開発蒐荷竝ニ民生安定ニ重大ナル影響ヲ及ホスニ至ルヘク、又泰仏印ハ勿論新ニ独立セルビルマ・比島等ニ於ケル本邦側ノ軍費竝ニ輸入資金ノ調達等ニ当リ困難ナル政治問題ヲ伴フ惧多分ニアルヲ以テ其ノ対策ニハ充分慎重ヲ期スル要アルヘシ
(360頁)


このような状況は、
軍票インフレ」と言わざるを得ないでしょう。