日本近現代史と戦争を研究する

歴史学の観点から日本近現代史と戦争について記します。

小林英夫『日本軍政下のアジア』―「大東亜共栄圏」と軍票― 第三章

第三章は、「『大東亜共栄圏』の実像」。
ここでも、軍票に関係する第五節以下をまとめます。


●華中・香港

ポイントとなるのは、1943年頃。


42年3月、興亜院会議は、華中に対する通貨政策を転換させ、
儲備券による統一を企図します。
華中の主要通貨であった軍票の発行が停止されるのが43年4月。
以降、儲備券が軍票にとってかわります。


儲備券発行高は激増していきます。


41.7  7600万元
41.12 2億4000万元
42.12 34億8000万元
43.12 191億5000万元
44.12 1396億9900万元
45.8  2兆6972億元


この結果、はげしいインフレへとつながります。


<上海の戦時物価指数>1936年平均を100とする
40年平均 475
41年平均 958
42年平均 2,547
43年平均 6,721
44年11月 94,170
45年8月  119,625


一方、香港では、軍票に統一がはかられます。
43年6月1日をもって、香港ドル流通禁止。
香港ドルは、4対1の比率で軍票に強制的に交換させられます。


カラクリはこうです。

儲備券によって回収された華中・華南の軍票は香港にあつめられて香港ドルとの交換に使用され、軍票によって回収された香港ドルはマカオなどで物資調達のためにつかわれるという構造であった。(156頁)


●東南アジア

東南アジアでの大きな変化は、
43年1月、南方開発金庫券(南発券)の発行です。


南発券発券は、臨時軍事費特別会計による貸出に基いています。
43年6月時点での状況は次の通りです。


貸出金総額 5億2551万円
うち
 復旧開発事業貸出 2億1179万円 (40.3%)
 物資買い付け   3470万円   (6.6%)
 軍政会計貸上げ  2億7255万円 (51.8%)


すなわち、開発よりも軍政費用に重点があったことがわかるのです。

輸送力の減退と絶対的物不足の状況下において、軍政の財政支出を補填し、現地の物資を確保しようとすれば、通貨増発以外に方法はなかった。中国連合準備銀行といわず(華北)、中央儲備銀行といわず(華中)、南方開発金庫といわず(東南アジア)、四三年以降は「大東亜共栄圏」内での軍票をふくむ通貨濫発が一般化していく。(157-158頁)


南発券の発行高は激増していきます。


42.12 4億6326万円
43.12 19億5481万円
44.12 106億2296万円
45.8  194億6822万円(フィリピンのみ1月の数値)

物が不足しているところに通貨が増発されたわけであるから、四三年以降急激にインフレが進行するのは当然である。インフレは、東京を中心に同心円を描くかたちで、日本から離れれば離れるほどその度合いははげしくなった。(164頁)


駐フィリピン特命全権大使・村田省蔵の回想

戦時財政上、固より止むを得ざるに出たるものなりと雖も、何等の裏付なくして無制限に軍票を発行せば其価値の低下を見、物価の騰貴を誘致し、終には悪性インフレーションを導くことは当然なり。(166頁)

フィリピンにおける体験者の証言は、164-167頁。


179頁には、「大東亜共栄圏」下の物価指数の推移(1937.6-45.8)が
グラフにまとめられています。
これをみると、東京・ソウル・台北・新京と、
それ以外の地域の増加率の大きな差が明らかです。


<敗戦までの軍票発行総額>
支那事変軍票」 25億1646万円
南発券      194億6822万円
連銀券      1326億300万円
儲備券      4855億100万円
合計       6400億8868万円