「満洲国」建国過程で誰を省長に登用したか
Last Emperor of China / tonynetone
満州事変では、日本は独立運動を支援するという体で、溥儀を傀儡国家の執政(のち皇帝)として担ぎ出すわけですが、では大臣などその下の役職はどうなっていたのでしょうか。日本人が全部担当したわけではありません。それらのポストを担当する者を担ぎ出す必要があったわけです。やり方としては、二通りが考えられます。
- 地位の低い者を格上げして強引に高い役職につける
- もともと地位の高い者をそのまま高い役職につける
もちろん、2のやり方のほうがいいわけでして、日本が実際にめざしたのも2です。
ここでは、省長のポストについて簡単にみてみましょう。「満洲国」の範囲に該当するのは、遼寧省、吉林省、黒龍江省、熱河省です。独立という体裁を整えるのに一番いいのは、それぞれの省長*1に独立を言わせて、そのままそのポストにつかせることです。日本はこのやり方を進めようとします。
- 遼寧省主席は臧式毅。事変後、臧を軟禁したうえで遼寧省長に据えます。
- 吉林省では事変勃発時、主席が留守でした。軍のナンバー2*2であった煕洽が実権を握り、のち省長となります。煕洽は清朝復活をめざしており、日本に協力的と言えます。
- 黒龍江省では状況が入り組んでいるのですが、簡単に言うと、事変後、張学良により馬占山が主席に任じられます。馬は日本と対峙しますが、やがて帰順して省長となります。しかしまた反旗を翻します。そこで騎兵第2旅長の程志遠、そのあとは省実業庁庁長の韓雲階が省長となります。「大物」を確保できず、人材難であったと言えます。
- 熱河省では、主席の湯玉麟が日本側の要求を受け入れ、いち早く独立しますが、その後の態度があいまいで、結局、日本軍の侵攻が始まり、湯を追い出すこととなります。省長となったのは、張海鵬です。張はもともと遼寧洮遼鎮守使兼東北騎兵第32師師長で大物といえます。
このように2のやり方をめざしましたが、順調に事が運んだとは言えません。強引にカタチを整えました。
さて黒龍江省を除いて、大物を登用しています。しかし日本側は大物にそのまま自由にやられては困るわけです。一番いいのは、建国が一応整ったら、彼らの力を骨抜きにすることです。34年12月、彼らは省長を交替させられて、名誉職へと追いやられます。