日本近現代史と戦争を研究する

歴史学の観点から日本近現代史と戦争について記します。

ラカンと陰謀史観

ネットでは、その場しのぎのおよそ生産的でない議論が溢れていますが、
相手の議論に刺激されて論点が深まっていく議論をみると、心が弾みますね。


内田樹鈴木晶『大人は愉しい』は、ふたりの「メル友交換日記」を活字にしたものです。

大人は愉しい (ちくま文庫)

大人は愉しい (ちくま文庫)


そのなかの一節、内田氏より鈴木氏宛メール(2000/12/17)より
ちょっと長いですが引用します。

さて、ラカンの精神分析理論の中心的概念である「父」というのは、生物学的な父そのもののことではなく、私たちの認識や経験の「様式」のことです。ふだんの生活で「何かができない」とか「何かが分からない」というときに、私たちはそれを単に「私は無能だ」とか「私はアホだ」というふうに受けとめず、「私にはできないことができる人が(どこかに)いるのではないか」、「私が分からないことを分かっている人が(どこかに)いるのではないか」というふうに推論を進めることがあります。これが「父」を呼び出すところの「様式」の出発点です。さらに症状が進むと、「私が×××をできない(知らない)のは、『私にはできないことをできる人=私の知らないことを知っている人』が何らかの意図をもって、私の能力の発現を阻止しているからではないか」というふうに推論が深みにはまることがあります。これをもって「父」が誕生するわけです。


いちばん分かりやすい「父」の出現形態は「陰謀史観」です。「陰謀史観」というのは、ある歴史的事件が起きたときに、それは「世界的な陰謀集団」がおのれの利益のために画策したのである、というふうに推論する知性のはたらきのことです。古くは「フランス革命=ユダヤ人陰謀説」から、近くは「アジア金融危機=ヘッジファンド陰謀説」までバリエーションは豊富です。これは誰かを「悪者」にして複雑な事態を一元的に説明しようとする「知性の怠慢」であると同時に、複雑な世界を意図的にコントロールできる人がいる、と信じている点においては、宗教的信仰とほとんど同質的な「天なる父」への「無条件の信頼」をも意味しています。このように、複雑怪奇説明不能の事態に遭遇したときに、単一の「原因」(=強大な権力をもった人の恣意)にすべてを還元して知的負担を軽減し、あわせて世界には「見えざる秩序がある」ということを確認する知性のはたらきを、精神分析的には「父の子であることを承認すること」、つまり「エディプス」といいます。
(69-70頁)


これは「南京事件」についても当てはまるでしょう。
中国の「謀略」によって世界が信じ込まされているとか、
中国の意を汲んだ「左翼学者」が「自虐的」に事件を「捏造」しているとか。。。


「これが真実の歴史だ!」みたいなモノを読んで、
何者かの意図によって自分は騙されていた、みんな今でも騙されているけど、
自分だけは抜け出せたと考えるのは、ほんと「知性の怠慢」です。


冷静になって考えてみましょう。
この複雑な世界がそんな単純なものかと。
人々はそんなおバカかと。