「シーケンシャル・アクセス」と「ランダム・アクセス」
再び、内田樹・鈴木晶『大人は愉しい』より。
内田氏は、書物とインターネットの違いを次のように述べています。
書籍とインターネットは、知への接近の仕方がまったく違っています。これを「情報のソース」としてひとくくりに扱うことから、いろいろな誤解が生じているのではないでしょうか。
書物は知への「シーケンシャル・アクセス」のツールであり、パソコンは知への「ランダム・アクセス」のためのツールです。
(197頁)
内田氏は、立花隆氏が提起した「ユービキタス大学」構想=サイバースペースでの教育が
高等教育機関を代行できない理由を次のように言います。
それはインターネットでアクセスできる情報は「ランダム・アクセス」系の情報に限られるからです。誰でもそれを「一義的なもの」として、かつ「対等の資格」で共通のプラットホーム上で交換できる情報にしかインターネットではアクセスすることができません。
これに対して「シーケンシャル・アクセス」系の知というものがある、というのが私の持論です。これは「その情報を読みとる能力そのものを、その当の情報から教えられるような知見」、「読み手を『そのテクストを読むことができる者』へと形成してゆくような<絡み合い>の事況」においてのみ出会われる知見です。
そのような知には『師に仕える』ことを通じてしか触れることができないということ、これも以前に書きました。
「師に仕える」とは、一言で言えば「自分の手持ちの知的能力によってはアクセスできない知的境位が存在すると知ること」、別の言葉で言えば「他者が存在する」ことを学ぶことです。
(237-238頁)
「情報」と「知」は違うとは、よく言われますが、ほんとうにそうだと思います。
インターネットだけでは、「知」にアクセスできません。
なおここに言う「師」とは必ずしも、情報量で自分を凌駕していることを必要としません。
知的な位階が違うということ、すなわち「他者」であることが重要なのです。
「他者」によって自分の「臆断」が打ち砕かれます。
立花の提唱する「ユービキタス大学」にはこの「知性の自己中心性を徹底的に反省する」ための契機が構造的に欠落しています。
「ユービキタス大学」では、あらゆる学術的情報は、ちょうどカフェテリアで好きなディッシュを選ぶように並んでいます。選ぶのはあくまで「私」です。私が何を選び、何を選ばないのか、その私自身の選択にかかっている「バイアスそのもの」は決して主題的に問われることはありません。むしろ私自身の「偏見」や「臆断」は選択の反復を通じて強化されることになるでしょう。
(240頁)
インターネットでの情報収集の問題点は、まさに、「選択の反復」によって、
「臆断」を強化していくことにあると思います。
「ランダム・アクセス」は、「臆断」の強化に都合のいいものとなることでしょう。