<わたくし>の字引きと<おおやけ>の字引き
■今野日出晴「歴史教育の構図」『歴史学研究』755、2001.10
「構造主義的な学習論」をめぐる加藤公明―大町健論争について、
次のようにまとめられている。
ここでするどく問われたのは、教室の「説得性」か、学界の「共有財産」かということであった。教室において、もっとも説得的な仮説が、学界の「共有財産」にもとづいた説と異なっていたとき、どうするのかということであった。教室のなかの「説得性」と学界の「共有財産」との回路をどのようにつなぐのか、あるいはつながないのかということでもあった。その回路をつなぐ一つの方策が、教科書叙述なのかどうかも含めて、まだ、詰めなければならない論点は多い。
(212頁)
さらにこれに関連して鶴見俊輔の主張を引用し、次のように述べる。
例えば、鶴見俊輔は、偉大な国語教師は、それぞれの生徒が<わたくし>の字引きを編むことをたすけ、生徒相互の<わたくし>の字引きの交通を管理し、そして、日本でいま通っている<おおやけ>の字引きとこれらの<わたくし>の字引きとのつながりを工夫するとしている(『日常的思想の可能性』筑摩書房、1967年)。ここでの<おおやけ>の字引きを学界の共有財産に、<わたくし>の字引きを<わたくし>の歴史認識に当てはめて考えることができる。
(同頁)
以前にとりあげた安井俊夫氏の主張は、
最初から、<おおやけ>の字引きに照らし合わせて、正当か否かを決めるのではなく、
ちょっとくらい違っていても、生徒たちが自分たち自身の手で字引きの編纂に取り組むことが
大きな財産になるとして、その作業自体を重視するものであろう。
生徒たちは、学習途上の段階にあるのだから、最初から完成された字引きである必要はなく、
試行錯誤、苦労しながら自分の字引きを編むことが必要であると思う。
問題は、<わたくし>の字引きに<おおやけ>の字引きをどう突き合わせるかだ。
学習途上であるとして、いつまで突き合わせの保留が許されるのかという問題でもある。
具体的にふたつの字引きのつながりをどう「工夫」すればよいか。