日本近現代史と戦争を研究する

歴史学の観点から日本近現代史と戦争について記します。

「表象」と「歴史学的な知」


安丸良夫「総論 表象の意味するもの」歴史学研究会編『歴史学における方法的転回』青木書店、2002

たしかに「史料」はなんらかの「表象」であり、私たちはこの「表象」の意味作用を通じてしか「事実」に迫ることができない。さらに私たちは、こうした「表象」の分析をもとにして歴史叙述というもうひとつの「表象」をつくりだすのだから、歴史研究はこうした「表象」と「表象」とのあいだを漂う意味構築作業のことだともいえる。しかし以上のことは、人間や社会に関することがらは、たいがい主観化・意味化を介して存在しているという根源的な事態に由来しており、なんら不思議なことではない。ただ歴史家とは、時間と場所という歴史性のなかで「表象」について考えるという公準を選び、そうした公準のなかで思考することで人間と社会についての知を拡大してゆけると信ずる者のことだ、と私は思う。
(241頁)

レトリックとイデオロギーは、私たちの認識を曇らせる原因にもなるが、しかし、じつは認識の原点にある駆動力にほかならず、構想力と立場性なしにすぐれた歴史研究が生まれたためしはない。歴史研究は所詮は後世の人間から見た後知恵であり、しかもつぎつぎとつくりなおされる後知恵ではあるが、しかし、それはのちに得られた知見をふまえて物事を考えなおすということを意味しており、そこには平凡な私たちをすこしずつ賢くしていく効用がある。歴史学的な知は、世界の秘密をいっきょに解き明かす黙示録的なものではないが、私たちの生きることの意味についてゆっくりと媒介的に考えさせてくれる鏡たりうるものだ、と私は思う。
(242頁)

「後知恵」であることがよく批判されるが、「後知恵」の何がいけないのかということだ。
いまのこの世界を生きているのだから、「のちに得られた知見をふまえて物事を考えなおす」、
物事を捉えなおすということが決定的に重要であると思う。



教科書問題に関連して、桂島宣弘氏の、

「歴史観は自由だ」というレベルの問題ではなく、私たち自身が少なくとも、現在の社会的意識として「どういう価値を大切に育てていくか」ということが重要な問題だと思います。


http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~katsura/doyou.htm

という言に同意する。