日本近現代史と戦争を研究する

歴史学の観点から日本近現代史と戦争について記します。

「日台戦争」と呼ぶのは誤りか


檜山幸夫氏は日清戦争および植民地期台湾を専門としているが、
その著書『日清戦争 秘蔵写真が明かす真実』(講談社、1997)では、
第六章「台湾統治と台湾戦線」の第三節を「日台戦争」と題している。
同節251頁では、次のように述べる。

清軍兵士と異なり、彼ら(引用者注―台湾の抗日軍)が頑強に抵抗した背景には、台湾に福建省や広東省から移住し、そこに住んでいた原住民を討伐し、苦労して荒れ地を開墾して獲得した土地を守るという意識があったからにほかならない。その意味では、台湾での戦闘は、正しく日本と台湾との戦争(日台戦争)であり、最初の植民地戦争であったということになろう。


檜山氏は、日台戦争の終末を、
第二師団が凱旋した明29.5月末とみているようである。



自分たちが苦労して獲得した土地、郷土を守ろうとする者が
頑強に抵抗するのは、道理であろう。
現地に入った樺山台湾総督は、明28.6.10、伊藤首相宛電報のなかで、
「戦争」という表現を使っている。

「両三日中ニ総督府ヲ台北ニ移ス積リ」淡水ノ支那兵砲台ノ火薬庫ヲ焼キ逃ゲタル風説アリ。左レドモ島ノ南部ニテハ多少ノ戦争ハ免カレザルベシ。
(『秘書類纂 台湾資料』1935、24頁)

一敵国を相手にした外征と変わらないというのが、
樺山総督の認識であった。

樺山総督は6.19、伊藤首相に宛てて、
台湾に派遣された文武諸官員の扱いを「外征従軍者」とするよう稟申した。

日清両国間ノ平和既ニ回復シ台湾島ノ受授ハ完了セリト雖本島ノ形勢ハ恰モ一敵国ノ如ク清国ノ将卒ハ淡水三貂湾ニ於テ我兵ヲ射撃シ又金咬蒋基隆等ニ於テ頑固ナル抗敵ヲ為セリ而シテ南方安平打狗等ニ於テ我軍艦ヲ屡砲撃シ又新竹以南ハ尚夥多ノ残留清兵充満スルヲ以テ今後幾多ノ戦闘アルヲ免レス故ニ名義上ヨリ言ヘハ台湾ハ既ニ帝国ノ新領土タリト雖実際ノ状況ハ外征ニ於ルニ異ナルコトナシ故ニ本島ニ於テ文武ノ職ヲ奉スルモノハ其平定ニ至ルマテ総テ外征従軍者トシテ諸般ノ取扱相成度此段稟申候也
アジア歴史資料センター ref:C06022096100)


これは閣議で了承され、法制度上においても、台湾における戦闘は、
「外征」すなわち対外戦争として扱われるようになった。


同様に、死没者遺族に対する特別賜金給付に関わる「廿七八年戦役」の期限も
台湾に関しては、明30.5.8まで延長された。
すなわち、その間に死亡した者は、戦争で死亡した者とみなされ、
遺族は特別賜金の給付を受けられるのである。
(「明治三十年陸軍省令第十八号特別賜金之件上申」ref:C06082794400 )


また、明30.4.30、乃木総督が陸相に宛てた軍功行賞に関する稟申によると、
「廿七八年戦役」に関わる軍功行賞の期限が、明29.4.11まで延長されていたことがわかる。
乃木総督は4.11以後も台湾の状況は変わらず、「廿七八年戦役」の扱いに準じて、
軍功行賞を行うよう稟申しているが、そのなかで次のように述べているのが注目される。

目下台湾ノ現状タル右四月十一日以前ノ状況ト決シテ差異無之唯名義上廿七八年戦役ト其関係ヲ離レタリト雖トモ其実全ク之ニ連繋シ其討伐ノ如キモ土匪アリ支那残兵(台東ニ集団シ在リタルモノ)アリテ決シテ内地土寇竹槍席旗ヲ鎮圧スルノ類ニアラズ
(※合字はカナに改めた。ref:C03023083900 第25画像)


すなわち、国内の反乱を鎮圧するというような、
簡単な戦闘ではないという認識であった。
この稟申も承認されている。


また恩給の額に関係してくる戦争への従軍加算の期限*1についても、
内地にいた軍人の場合は、日清講和につき平和回復の詔勅が発布された明28.5.13までなのに対し、
「征台軍人」については、樺山総督が台湾平定を宣言する直前の明28.11.18までとされた(ref:C06082740100)*2




台湾における作戦を指揮したのは、大本営であった。

樺山台湾総督ノ清国全権委員李経方ト三貂湾沖ニ会同シ六月二日ヲ以テ台湾並ニ澎湖列島ノ授受授受ノ条約ハ附録第百七参照ヲ完了セシハ唯形式ニ止マリ実際ハ台湾領収ノ為メ征討ヲ行フノ已ムヲ得サルニ至レリ因テ本戦役ニ継続シテ作戦ヲ実施シ翌年三月ニ及ヒ之ニ従事セルモノ約二師団半ヲ算シ参与セル兵員通計約五万、軍夫二万六千余、馬匹九千四百余頭(附録第百八参照)大本営モ亦依然存立シテ作戦ノ指揮ヲ執レリ
参謀本部『明治二十七八年日清戦史』第7巻*3、1907、2頁)


大本営が指揮を執るということは、戦争以外の何物でもないであろう。


動員数および犠牲者についても、注目に値する。
日本軍5万に対して、3万3000の清国兵・抗日軍兵士が対抗した(檜山前掲書、258頁)。
日本軍の死者の数も9600人(うち病死7600人)と、下関条約締結までの戦没者8400人(うち病死7200人)を上回った戦闘であった(高橋典幸ほか『日本軍事史』吉川弘文館、2006、326頁)。



以上を踏まえれば、「日台戦争」と呼ぶことは誤りとはいえないであろう。


※追記
09/05/17 
動員および犠牲者については、5/16のエントリを参照。上記の動員数は1895〜96、犠牲者数は、1895.5〜1915の数値。

*1:恩給を受けるには、公務に服した期間がある一定の年限(最低年限)に達しなければならなかった。また服務期間が長いほど、貰える恩給額は増加した。戦争での従軍は、実際の服務期間に加えて、ボーナス的に期間が加算されたのである。

*2:軍功行賞と比べると、延期期間がより抑制的である。他とのバランスは考慮されなかったのだろうか。

*3:全8巻のうち第7巻が「台湾ノ討伐」に充てられている。